昭和46年06月06日 特別奉修委員



  (途中から)信じると、信じないと言う事でおかげが、それこそ天地のような開きがあって来る訳ですが今朝から、鳥栖の上野さんが兄弟でお参りしておりましたが、北九州の方に行っております兄さんが、(   ?   )帰って来ておられます。今朝単車で2人乗りで参って来ております。最近その単車が非常に調子が悪くなって、お参りしようと思うても、おこらない訳ですね。
 今日もあのぶってから、あのおこしたらほんの1分で、おこった。(    ?    )特に、特にあの今日は兄弟2人お参りさせて頂くと言う事を、神様が喜んで下さる。又は、神様が、あの、参らせてあのー、参ったと参らせて頂いたと言う事は大変な違いなんですよね。もうそれがね。ただ口では言えばそれだけのことですけども、それが実感が無い。っというもうこれだけ普通なら、時間掛かってなかなかさぁと間に合わん単車が、今日は一辺でおこったと。
 本当に神様が、あのう許しを下さった。許されて今日は参って来た。参らせて頂いたと言、この参らせて頂いた事ね。参ったと言う事、もうそれこ、(どうしだけ、出来てくる?)と言う事。今私その事をね頂く、頂くんですけれども。あの例えば何という所ですかねあの城島の、筑後川の支流の方ですけど。言うなら丁度その魚が支流を通ってむつと言う魚が。あれはね、あの笹の葉が三つになったとね。
 又はあの、栗が石になったりっと言ったような、これはあの「お大師様」のお伝記が、お伝記と言うかなんか知らんけれど、まぁあの色んな話の中にありますですよね。夕べその、笹がえつになるとか、栗が石になると言うほどしに違うって言う事、頂いたんですけどね。お参りさせて頂いて、口じゃ言よるばってんか、本当に許されて参らせて頂いたんだという実感ですね。今日の御用をさせて頂くでも、お掃除させて頂くでもね、その万上からさせてもらえよるこう言う。
 させて貰いよるち言よるばってん、許されてされさせて頂きよるというたら、そのおかげはもう、それこそ笹のはがえつになるくらいにおかげにならね、なって来なければね。だからそんなに、あの違うそんなに開きがあるもんですね、私共の心の使い方一つというのはね、参ったと参らせて頂いたというのは、そんなに違います。だからそれを本当に、信心から実感として、そうさせて頂いた、お参りさせて頂いたと、許されて今日の健康があるんだと言った様な事をですね。
 真からあの分かったら、真からの有難さが頂けて来るでしょうしね、そこん所のおかげを私共は、本当にお参りさせて頂いた、こうやって大変な時にさせて頂けたと言う中身をね、その頂いたと言う事をもっともっと、何とか深めるね、手立てと言うか、そのこれだようとそうじゃないと言う事の。生きておる者生きておる者なら絶対育つね、だから生きておるものが成長しなかったらね、こっちょとやっぱ考えんといけない事なんですよね。生きておるのだったら絶対育たなきゃならない。
 それが育ってない伸び悩んでおるとするなら、ちょっとおかしいと思うて頂いておる、とまぁ御用しておるとと、させて頂いておると言う事。お参りしておると言う事とお参りさせて頂いておると言う事。これはもう何時ものことで分かっておる事ですけれども、頂いておるがいうなら笹の葉がえつに変わる程しの変りのものであると言う事を実感、いわゆる1人1人がね体得して行くことが信心だと。
    (で出し、途中末尾切)